64年間過ごすことの出来た、私の人生の中で、理容の世界しか知らずに終わるのはもったいないと、単細胞的発想で、出切るだけ自然を相手に、気力体力のある内に知らない世界、未知の世界を見たい、知りたい、体験して感じたいと。
理想は妻と共にがもっとも良いのだが、今回の旅も妻を連れては決して出来ない困難な旅だったのです。
あえて1人での行動をとらせてもらった。
1昨年も新型肺炎(サーズ)の心配があり連れて行くことが出来なかった。
4年ぐらい前から弟と共にバリ島へ行くようになった。
弟は英語、インドネシア語が話せるため私達にとっては大変都合がよい、弟との共通点は”海”、主目的はシュノーケルダイビング。
昨年の春、中古船にて因島からインドネシアへ航海したのです。
整備のために用した日時を入れると2ヶ月余りだった。
この旅に出るとすれば長年育んできた道を自ら踏み外すことになる、自営業で生活している毎日のリズムを自分自身でまったく崩してしまうことになるのです。
旅を決意する事は非常に困難で勇気のいることでした。
しかし64歳これからの私に残された20年余の限りある歳月、奥深い興味の尽きない人生をどう生きるか、どう死ぬかが、意識の底にはびこるようになったのです。
人は1日1日と確実に年を取っていきます。
すべての人は天寿を待つのではなく”よし”と思うことであれば自らの人生を賭けて真正面切って人生の課題に立ち向かっていくべきものだと思います。
心の中では万が一の覚悟もいるでしょう。
まだ先のことだが老いはまだ遅いと言うべきか、迎えうつ事を決意した事で生かされている証だと心から実感します。
私はまだ現役だ、どうする、このチャンス(夢)に賭けてみるに値する価値があるかと、自問自答する毎日でした。
だが64歳やはり今を逃したくないと言う想いが日増しに募るのでした。
風船のように想いがどんどん膨らんでいくのです。
妻はもうとっくに感じ取っていたのか 、とめても聞かないでしょう、一生に一度のことでしょうと。
男のロマンは女の我慢か・・・・
昨年も一生に一度と言ったような・・・・
バリ島からヌサペニダ、ロンボク、スンバワ、東ティモールのとなりフローレス島までダイビングの毎日、20日間の日程、私の事を1番理解?して知ってくれている妻だから止めても聞かない人だからと「元気に帰ってきてね、約束よ」の言葉に送られて出発させてもらえることになった妻には心から感謝しています。
航海中どんなにか心配させているかと思うと心が痛みました。
どうか安心して待っていて欲しいと願うばかりでした。
そして今回の「しまじ」での船旅の1件で大変力になってくれた大勢の同級生(造船関係に係わっていた人がほとんど)と私の知らない「しまじ」整備のために巻き込まれた人達は「仕事だったら絶対にせんで」といいながらも溶接機だ、発電機だと大物、小物ありとあらゆる人と道具を持ち込んで私の夢の後押しをしてくれたのです。
友達だからと言うことで・・・・
ただそれだけで私は皆にここまでしてもらえるような事は何もしていないのにしかも全て無報酬です。
出来上がった船の姿を見ると、誰がどこから見ても今話題の不審船、あるいは幽霊船そのものです。
思えば手伝ってもらった同級生と応援部隊株式会社橋本組の総力を上げて、はかり知れない大変な援助を受けてきました。
これを1口に援助と言って良いのかと心に深く重く感じています。
そして皆は出航するとたちどころに直面するにちがいない私の無知を知っていたのです。だからこそあそこまでしてくれたのです。
因島から赤道(0度線)を股いで、インドネシア、ジャワ島まで地球1周4万キロの4/1、6千から7千キロの船旅を無謀と言われながらも決行したのです。
いや、させてもらったのです。
この旅は始まりから終わりまで予期せぬトラブルの連続でした。
九死に一生が何度あった事か・・・・
しかし幸運の女神?に守られながら生きて生還することが出来たのです。
この船旅のあらゆる所で感じた初体験の荒波が電流のように私の体中を駆け巡っていきました。
64歳にして両手で有り余るほどの2度と出来ない命のかかった初体験だったのですが、幸運の女神?に守られて、生還し夢を実現させる事が出来たことにより予想する以上の達成感、充実感そして満足感の心地よさを味わうことが出来た私は「今生きてる」と実感できるのです。
人が生きると言う事の意味は自分自身が生きる「証し」を見つける事だと思います。
因島支部 越智盛治
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